2014年11月2日日曜日

アベイラブルライトという極めて日常的な選択肢

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このブログでは何度も自分の出自は写真ではなく動画関係であると書いているのだけれど、現場から離れても、長年の習慣なのか今も映画をよく観る。映画館でもテレビでもいいのだけれど、その画面を見ながら、こいつ下手糞な演出だなぁとか、CGで誤魔化しやがってコノヤローとか、前の画とつながってないぞオラオラ、などと下品かつ低俗な罵詈雑言を浴びせては喜んでいるのである。

一本の映画を作るのは大変な作業なので、目を皿のようにしてアラを探すと、必ずどこかに突っ込みどころの一つや二つは見つかるものであって、それを見つけては楽しんでいる。自分が現役の頃なら蹴飛ばしてやりたい客になってしまったわけだ。

自分は最近の映画より、どちらかと言うと少し古い映画を見ることのほうが多いのだけれど、それは最近のデジタル合成された画面に食傷気味で、CGで作られた背景や素材を、幾重にも合成して作られた画面のルックやタッチが気に入らないからである。CGの合成が悪いというわけではない。 自分の高貴かつ優雅な趣味とは合わないだけである。(ここは笑う部分ですよ)

自分が最も好きなのは1970年代前後の映画のルックで、この頃に映画の撮影というものはそれ以前の伝統と決別しているのである。 1960年代以前の、映画会社による大作主義が立ち行かなくなってしまい、予算が圧倒的に縮小されるようになった頃である。それまでの世界的大スターを使って巨額の予算で撮った豪華超大作などはどんどんと姿を消し、少人数のスタッフが実際の街に出て、照明らしい照明もなく撮影された映画が多く出現した。

そうした映画のルックは、時折作られる超大作映画にも影響をあたえることになる。つまり、それまでのライトを目一杯当てて、とにかく明るく華やかに撮影されていた映画は少なくなり、たとえライトを当てるにしても自然光の様に見えることが重視されるようになった。この当時の撮影監督インタビューなどを読むと「アベイラブルライト」という表現が出てくる。

「アベイラブルライト(available light)」というのは、撮影現場に実際にある光源を使うということで、照明は現場の光源を補うために原則使われる。但しこの当時は、フィルムの感度自体がまだそれほど高くなかったので、光が直接当たっている部分は兎も角、僅かに当たっているだけの部分などはごっそりと墨になってしまい細かなディティールが出ない。苦肉の策として、レンズ前にソフト系のフィルターをつけて、画面全体をフレアーぽく滲ませて明るく見せることが多かった。この文章を読んでアッと気づく人も多いかもしれない。この当時の欧米の映画は、画面が妙にソフトなのである。他にもフラッシングという技術なども頻繁に使われていたのだけれど、そこまで説明していると長くなるのでこの辺りにしておこうと思う。

一般に写真の世界では「アベイラブルライト」という人はあまり多くない。但し、スタジオなどできちんとした照明を作るプロフェッショナルな人達ならば一応知っているはずである。一応と書くのは、写真の世界では自然光やそれに似せた照明というものは、演出された照明と等価であるからである。だから「アベイラブルライト」だからといって最優先とはならないのである。

例えば、窓辺のソファに座る女性を撮影する際、映画だと窓からの光か部屋の照明を活かす以外は原則考えられないのだが、写真の世界ではストロボなどによる強い直接光や拡散された反射光などで均一に照明することもある。いいとか悪いとかではなく、表現の幅が広いのだろうと思う。

一般のカメラユーザーが写真を撮る時、細かく照明を作って写真作品を仕上げることは珍しいだろうから、通常は「アベイラブルライト」によって撮影することになる。特に昨今はカメラの性能が上がり、高感度特性やノイズ処理能力が上がっているので、「アベイラブルライト」であって不足することなどほとんどなくなってきたろうと思う。昔は意識的に作っていた「アベイラブルライト」も、今では日常であって、昔の苦労はもうなくなったのだなぁなどと、最近の映画を寝転がって見ながらオッサンはボヤくのである。


撮影地:奈良県奈良市
Sigma DP1 Merrill
Sigma Photo Pro



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